没個性を称えよ、個性を解放せよ

ベッドに鎮座する人体風の奇怪なオブジェの落書き

ロシア留学15日目 @モスクワ

※電波

 

今日の授業は午後スタートだった。そういうわけで午前中はシャワーを浴び、久々の洗濯を、部屋で呆けていた。

 

 

13時。授業スタートのはずだったが部屋でTwitterをしていたら定義上遅刻になっていた。音韻の授業だった。何故か部屋を出れる気がしなかったので、もう今日は休むことにした。所用の頭痛があったのだ、仕方ない。

 

そうやって日本でやるのとまったく同じように自主全休を生成した私であった。しかし全休を生成するたびに思うのだが、何をやればいいのかよくわからない。なんか課題やれよ!て感じだが全休というのは課題が全くない時や、やる気がない時に限って生まれる(生む)ものなのだ。

 

余暇。余った暇。いち人間の在り方を決めるのはこの余暇だと言われていたりする。しかしそれは在り方を決める手段を持つ人のための教訓で、楽器も画材も持ってきていないこのロシアの郊外では余暇を過ごす術はそんなにない。そしてそもそもそれらを使いこなす技量もない。そういうわけで今日は一日Twitterくらいしかしていない。

 

余暇の過ごし方は大別して3つのタイプに分かれる、というのが私の意見だ。それらを仮に入力型・処理型・出力型と呼びたい。余暇の過ごし方、と書くのも面倒なので余暇方略と書き換える。

 

入力型の余暇方略とは、情報を取り込むことだ。音楽鑑賞・読書・暗記タイプの勉強などがこれに当てはまる。入力型では、人の在り方の内、その人を形作る材料の蒐集が行われている。

 

処理型の余暇方略とは、情報を整理することだ。日記の構想・家計簿付け・睡眠・ダラダラなどがこれに当てはまる。処理型では、人の在り方を決めるための情報の取捨選択や修飾が行われている。

 

出力型の余暇方略とは、情報を表現することだ。楽器の演奏・絵・日記の執筆などがこれに当てはまる。処理型では表現行為を通して人の在り方が形作られる(強化される)。

 

これら三つの余暇方略の内、一番容易ではないものは出力型であろう。出力には手段が必要であり、その手段は「スキル」として社会に認識されている。スキルにはピアノの上手さ・スポーツの上手さと言った後天的なものから、美しさ・声と言った生得的なものまで、ありとあらゆる表現の手段が含まれる。しかしスキルはやすやすと手に入るものではないし、スキルを持つ者もそれを維持していくコストがかかる。

 

スキルには度々「才能」が求められる。スキルの行使には、社会によってある程度の基準が設けられている。その基準が才能だ。

 

一方、才能を持つ者によるスキルの行使は社会に承認される。「あの人はあんなことができるんだって!」「あいつはああいうことができる(ああいうやつだ)から俺たちの仲間だ。」社会がこのような相互承認の関係で成立していることは、人間が言語によって承認しあうこと、社会が言語によって成り立つことから導ける。

 

余暇方略の話に戻ろう。今、社会(少なくとも日本社会)を見てみれば、人々の大部分は出力型の方略選択に躍起になっている。皆皆が「俺はこういう人間だ」を、表現・手段の違いはあれど叫び続けている。そしてそのうちスキルも才能も持つ者だけが、最大級の承認を受け暮らしている。

 

私は、この構造を「没個性蔑視」と「個性の独占」と呼び、断固反対の立場を取っている。没個性なるものは「つまらんやつ」と虐げられ、一握りの(偶然)権力に選ばれた者のみがある個性の唯一なる所有者として人々に「真似事」というレッテルを張り付けている。

 

個性とは各々のものではなかったのか。なぜ他人の個性との釣り合いにより我々の個性は決定せらるのか。なぜ我々は、個性の占有により正気を搾取されしか。それは我々が出力型をあまりに敬い過ぎたためであろう。

 

私はここに提言したい。我々は個性を競争原理のルーレットの賭け草にしてはいけない。個性を承認の牢獄から解放しなければいけない。個性は我々各々の内に育まれ、啐啄の機を以て表現されることが最も不幸せを生まない在り方だと思われる。

 

我々は入力・処理の余暇方略に立ち返り、より自分なるもののタネを練っていた方が、幸せな生き方ができるのではないだろうか。無理して自分というものを立てるよりも。それは没個性への入り口である。しかし、没個性は個性化への王道でもあるのだ。我々よ、没個性を称えよ。

 

個性を取り合って、マウントも取り合うのはもうやめにしませんか。

 

何者にもなれない同志たちよ、没個性を称えよ、個性を解放せよ。