没個性を称えよ、個性を解放せよ

ベッドに鎮座する人体風の奇怪なオブジェの落書き

ロシア留学14日目 「何者」@大学寮

※今日の日記は妄想を多分に含みます

 

なんだかんだあって普通にモスクワに戻ってきた。

帰りの新幹線ではエコノミーシートを取ったはずなのに何故かスタンダードシートに通され車内食を頂いた。タダ飯だったのか知らぬ間に追加料金を取られていたのかはわからない。後者だったら嫌なのでもう考えないことにする。

 

さて、自分は今、最近の常の通りモスクワ郊外の大学寮でひそひそと暮らしている。
この留学プログラムもあと2週間しかないがロシア語力が付いたかと言われると断じてついていないと言わざるを得ない。会計の仕方くらいしか学んでいない。

 

まあそれは大して気にしてはいない。自分はロシア語学科ではないからだ。このプログラムに参加したのは、青年期の始めから自分をつなぐキーワードのうちに「ロシア」というものが入っていた、それだけに過ぎなかったりする。

 

しかし、「ロシア」が自分にとって重要な意味を持っているのは事実で、自分は偶然ここに来たわけではなく、ある必然、来るべくして来たものであるとも強く感じている。今日はロシアとは全く関係ないがそういう「自分」のことに関する諸々の所感を書き記してみようと思う。

 

「自分」という言葉を認識したとき、具体的に説明できるだろうか。

誰かが「自分はこのような人間だ」という文を用いる時、私(新井)は少し懐疑を覚える。

というのも、この分では「自分」を表現するものとして「この」の何かしらの性質を引き合いに出しているが、その性質は「この(モノ・行為・概念...)」固有であり自分由来・自分固有のものではありえないという観念が私の認識を強く支配しているためである。

すなわち私の(歪んだ)観念下では、「自分」を表現することは「自分は自分のような人間だ」というトートロジー以外には不可能なのだ。あなたが完全に自分である以外のナニカで自分を表現した瞬間、その「あなた」は虚偽になる。あなたが表したあなたの性質はあなたの所有ではなくナニカの所有である。

 

この立場に立っていると、人間のある種の表現行為は全て虚しいものと感じられてきてしまう。それは、二次以上の表現である。二次以上の表現とは二次元アニメだとかそういうことではなく、既存の作品はもちろん、概念も含めて自分以外の由来のナニカを自分が表現することである。真に自分なるものは、先天的な性質(声など)、新たなアイデア、リヴィドーしかなくなる。

 

しかし、人間の大方の表現は二次以上の表現でできている。学生は「学生らしく」あろうとするし、学生の中でも活発な者は「活発な者」らしく、オタクは「オタク」らしくあろうとする。

 

だが、そこに「自分」は表れない。自分は、兎角存在してしまっている自分を自分として表す以外に表すことはできない。残念ながら私はこの観念をあまり間違っているとは思えない。人間は、誰かであろうとする限り何者にもなれはしない。

 

こんなある意味絶望的な所感を記しどうしようというのか?それは正直自分にも今はわかっていない。ただ、自分がロシアに居ることや大学2回生であるという時分、夜の空気に流されてつらつら書き連ねたくなったのだ。

 

我らが京大生がよく使う言葉の中に「虚無」がある。話を聞き憶測するに、それは「何者でもない己を直視することに始まる自我の危機」が含まれている感じがする。この類の虚無を私は全く感じない。私は虚無になってしまったのだろうか。

 

俺は虚無感じてないんだぜヘヘ~イwwwwなんて言うつもりは豪もない。虚無を感じなかった所で全く偉くない。むしろパッションから遠ざかっている分悪い気もする。ただメンタルヘルスにはいい。

 

虚無。何者にもなれない恐ろしさ。しかし、あなたはそこにいるではないか。どうしてそれではいけないのか。

 

つい最近、アニメ「輪るピングドラム」を観た。この作品のキャッチコピーは「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」である。きっと何者にもなれない無数の人類には、運命の至る所から何がやって来るだろう。