没個性を称えよ、個性を解放せよ

ベッドに鎮座する人体風の奇怪なオブジェの落書き

葉桜見

今年の京都の春はそれはそれは短かった。

長続きした春雨が桜の花弁をまんべんなく落としていった。

今年は花見という行為に出たのは学部の新歓の1回きりだけだったし、

その花見もまともに花を視認していなかったので実質今年は花見に行っていない。

 

あまり惜しくはない。桜と言えばその下には人が集まり、集まった人は路を塞ぐ。

彼らが塞ぐ路は私が大学や河原町に行く道なのだ。

自転車で鬱陶しそうに通ったからと言って憎しみを向けないでくれ。

私はあなた方の安全のために神経を払ってのそのそ通ったのだ。

 

そんなもどかしい全盛の春は過ぎ、京都はそろそろ夏である。

気温はまだ少し寒いが、朝の陽ざしの色が明らかに冬のそれとは違う。

私は年中引きこもっているので太陽の色の違いには敏感だ。

 

最早京都に残った春の跡は花粉とサークルの新歓ラッシュくらいだ。

両者ともそろそろ鬱陶しい。

 

そして、5月がやってくると、これは葉桜の季節だ。

私は葉桜が好きだ。愛好人口が少ないのと、葉の方が花より大きいからだ。

桜の大きな葉が散る様子は花弁が散る様子に比べれば壮絶だ。

ひらひらというよりぼとぼと落ちてくる。

 

このダイナミックさを見ていると、無気力な私でも何となくダイナミックになりたくなる。

ダイナミックにゴミを出し、ダイナミックに料理し、ダイナミックに大学に行けるようになれ。

桜の大声のエゴが押し付けられてくるようだ。

 

エゴは美徳なり。人間はエゴの押し付け合いから逃れることはできない。

聖人君子ぶって謙虚に強かにエゴを表現するよりかは、

ダイナミックにエゴをバラまく方が気持ちの良い生き方ができそうだ。

 

そろそろ観光客も引く。弁当箱を買いに行かねば。