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ジェヴォチカの欠乏

ベッドに鎮座する人体風の奇怪なオブジェの落書き

個性の発揮

大学生活関係

昨日(ツイッターの)友人数人を集めて夜通し鍋をつついた。石狩鍋だった。それなりにうまくいって、好評を貰った。

 

そのついでに私に関して「料理が上手」との人格評も貰ったのだが、おそらくそれは調理の才能があるわけではなく、「そこそこ頻繁に作っていること」と「変なアレンジをせず基本的にレシピに従っていること」に依るのではないかと思った。

 

このことを敷衍して自分を見直してみると、私というのは「皆できるけどやらないことを比較的忠実に実行できる」傾向にあることが分かった。皆できるけどやらないことというのは料理掃除などの家事を始め、自分で言うのもおかしい話だが勉強、正直嫌いだが一応社会規範になっている「マナー」などの諸々である。

 

つまり生きることに関して事欠かないのだ。アイデンティティの根拠とするには実に貧相だが、表現技能もなければ賢さもない私はこれで生きていくしかない。

 

このような「生活の安定に集中する」ことと、「生活より自分の活動(例えば登山、音楽、芸術)を優先する」ことのどちらが人間として人間らしいのか。こんなことを言ってるのは、今日買い物から帰り際に近所にある金光教の教会の貼り紙に

 

人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい。

 

とあったのが心に引っかかったからだ。一体人間らしさって何なのか。

 

おそらくこの言説が生まれたのは幕末の転換期のころで、この時代なら「人間らしく」というのはひたすらに安定した生活を営むことだったろうと思う。金光教の信徒となり得る農民たちには、幕府が解体し新政府が生まれ日本が西洋色に塗り替わっていくのはさぞ不思議なことと見えたろう。

 

しかし、現代はやたらと「個性」が重視され、むしろ「不思議なことをする」ことが推奨されている時代のように感じる。そりゃあこういう傾向を作り出すお偉いさんが金光教の信徒である可能性は低いからこうもなるのは不思議でないし、技術発展がもたらした画一性の中に在っては個性を尊重したくなるのは当然という感じだ。

 

ただ疑問に思うのは、現代が「個性」の表現がなければ「人間らしく」ない時代なのかということだ。我々は生きているだけで生物学的には人間なのだ。その上にさらに人間の条件を積み重ねる必要があるのだろうか。

 

個性の表現に関する問題はよく個人のアイデンティティの問題に結びつく。確か、秋葉原通り魔事件に関する考察もまたそれに関わっており、「承認欲求」という言葉が巷で聞かれるようになるほど現代人は「個性」の問題に敏感だ。

 

「個性」の表現ができない人間は「取り柄のない」「面白くない」人間と見なされ淘汰される。そして自尊心を低くしたまま死んでいく。

 

基本的人権の保障が文章上は徹底されている現代はヒトをみな人として扱い、贅沢なことに最低限の文化的な生活まで保障されている。しかし、人が集団になると能力(とそれが表現するアイデンティティ)に基づくヒエラルキーが形成され、楽しいのは上位の人間だけ。万人が(どうやってそうするかはともかく)人生を謳歌する権利は保証されていない。

 

この状況を前提として考えてみると、やはり現代というのは「個性」を表現できなければ人間扱いされない時代のように感じる。だが実際にそれが可能なのは一握りの人間しかいないわけで、大多数はアイデンティティ資本(そういう概念があるらしい)が貧困だ。逆に考えればそれは、この多数派が「個性を発揮したい」という信念?呪縛を捨てればみんな幸せなのではなかろうか。

 

ここまで書いてようやく先の言説の意味を解釈できた気がする。別に我々が「(個性的な)誰か」である必要なんて全くなくて、そんなん気にせずのうのうと生きていればいいわけだ。

 

あくまでもこれは一解釈であるし、上に書いた内容自体アイデンティティ資本が貧しい私のルサンチマンから生起したものなのかもしれない。でも、のうのうと生きること、最低限これだけは一つの「正解」な気がする。