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没個性を称えよ、個性を解放せよ

ベッドに鎮座する人体風の奇怪なオブジェの落書き

アアア中学にもどりてえ

前の記事でもちょっと触れたが、スマホが普及し始めたのは私と同世代の人間が高1になった時だ。すなわちそれ以前は私は余暇はスマホ以外の事をして過ごしていたはずなのだ。こんなことを考えたのは壊れてしまったiPod(電源に接続していないと起動しなくなった)の中身を探っていたら、私が中学生以前に聴いていたであろう曲がたくさん出てきたからだ。

 

maiden-shortage.hatenablog.com

 私は中学時代はソフトテニス部員で、塾にも通っていたので余暇は少なかったがないことはなかった。iPodの中身や、遠い記憶(と言ってもまだたったの5年前の話だが)から考えるに、中学生の頃の私は余暇にはフジコ・ヘミングのピアノ演奏を聴いたり、学校の図書館から借りてきたシリーズものの小説を読みふけったり、ロシア語を勉強してみたり、部活のために筋トレをしていたりしていたらしい。

今の生活水準からすると随分と充実した生活だ。今の私は暇があったらツイッターしてるかテトリスしてるかゲーセンで音ゲーしているだけだ。

勿論今の私の状況は技術の発展や大学生という立場が原因が成立していて、年代に見合った過ごし方なのかもしれないが、主観的な充実度で言えば中学生の頃の余暇生活の方が絶対に良い。

中学の状況と今の状況を比較してみよう。

【中学時代】
・部活に勉強で余暇の時間が希少
SNSとの距離遠い
・情報が簡単には手に入らない(PC使ってニュースサイト開かないとわからない)
・田舎なので娯楽少ない(興味が絞られる)
・田舎なので行動範囲が限られる

【今】
・基本的に暇
SNSとの距離が近い(スマホのせい)
・情報量がかなり多い(スマホ
・いろいろな娯楽がある
・交通が発達しておりどこにでも行ける

 

バイアスがかかっているので必ずしも正しいとは言えないが、まず大きな違いは「手を出せるものの多様さ」だ。中学時代はスマホがない・遠くへ行けないという制限により必然的に身の回りにある物事を深めていくしかなかった。一方で今はスマホもある上都会に住んでいるので色々なものに手を出せる。

外向的な性格の人ならこの状況は楽しめるものかもしれないが、内向的な性格の私には今の多様な選択のある状況というのはちょっと可食気味なのかもしれない。

もうひとつの違いは「流入する情報量」の違いだ。中学時代はスマホがなかったので友人とつながるのは電話やせいぜいPCの電子メールを通してくらいしか手段がなく、他人の事は学校や親を通して知ることが多かったが、今はスマホを通せばSNSによって莫大な数の他人の些細なことまですぐに知ることができる。

注意散漫なタイプの人間にとってこの状況は危険だ。些細な情報に集中を乱される確率が高くなるからだ。事実よくあるのが、あることをやろうとした瞬間にツイッターの通知が来て注意がそっちに向き、やるはずだったことを忘れてしまう現象だ。私はツイッター大好き人間だが、リスクと背中合わせで生きているようだ。

ここまでまとめると、つまるところ私が今の最低限以下の文化的な生活から脱却したと自己認識するためにはスマホからちょっと離れるのが一番手っ取り早い手段のようだ。

こないだ伏見稲荷で「過去を清算して再出発しろ」という旨のおみくじを引いたのでそろそろ考え時なのかもしれない。